日本初の国の公的扶助制度である恤救規則。経済学や社会福祉の観点から非常に重要な制度です。
この記事では恤救規則について、概要や内容、救護法との違いを詳しく解説し、その成立の背景等もわかりやすく解説します。
恤救規則とは?
恤救規則(じゅっきゅうきそく)とは、1874年(明治7年)、日本で初めて制定された国の公的扶助制度です。
恤(じゅつ)とは、憐れむことを意味し、恤救とは「貧しい人を憐れみ、助けること」を意味します。
現代の日本でいう「生活保護」制度のようなものですが、受給要件は今よりかなり厳しいものでした。
それでも初めての国家的な社会福祉制度ともいえるため、社会福祉や経済学の歴史を学ぶ上では非常に重要な制度です。
恤救規則の中身
恤救規則は前文と5つの条項で構成されています。今回は条文に沿って、対象者・条件・給付額を整理します。
救済対象と条件
恤救規則により救済されるには、
- 救済対象になっていること
- 対象が救済の条件を満たしていること
の2つが必要で、どちらか一方を満たすだけでは制度は利用できませんでした。
救済範囲や救済額の具体は以下の通りです。
| 救済対象者 | 主な条件 | 救済の程度 |
|---|---|---|
| 障害者(廃疾者) | 極貧で、障害によって働けない | 年間、米1石8斗相当の金銭 |
| 高齢者 | 70歳以上で、重病または老衰により働けない | 年間、米1石8斗相当の金銭 |
| 病気の人 | 疾病によって働けない | 男性:1日米3合相当、女性:2合相当の金銭 |
| 児童 | 13歳以下で、生活を支える人がいない | 年間、米7斗相当の金銭 |
救済判断の基準の大きな特徴は、次の通りです。
現在の生活保護でも行政から親族等に扶養の意思の確認はなされますが、強制ではないことが大きな違いです。
また、現在の生活保護は働く能力の有無で支給の判断が変わることも制度上ありません。しかし、恤救規則では働く能力のある失業者や低賃金労働者は、困窮していても原則として救済対象になりませんでした。
救済の程度
恤救規則の給付額は、米の量で定められていました。ただし、実際に米を配給するのではなく、米の代金に換算した金銭を支給する仕組みです。
1874年(明治7年)当時は江戸から明治へと体制が転換したばかりで、それまでは年貢なども米で行われていた時代でしたから、そういった背景で「米」を基準にするのがわかりやすかったのです。
さらに、支給額は「米代相当の金銭」だけで、衣食住や医療などを総合的に保障する制度ではありませんでした。「食い扶持だけは保障」ということです。
生活扶助や医療扶助として生活にかかわるあらゆる金銭が給付され「健康で文化的な最低限度の生活」を保障する現代の生活保護に比べると恤救規則はかなり厳しい制度だったことが分かります。
支給額の試算
米1石8斗といわれても感覚的によくわかりませんね。
そこで、実際に試算してみます。日本銀行『日本銀行百年史』によると、1874年(明治7年)の東京・深川の米相場は、1石当たり7円28銭でした。
この価格で試算すると、次のようになります。
| 救済対象 | 法令上の給付基準 | 当時の金額への換算※ |
|---|---|---|
| 高齢者・障害者など | 年間1石8斗分 | 年間約13円10銭(月約1円9銭) |
| 13歳以下の子ども | 年間7斗分 | 年間約5円10銭 |
| 病気で働けない男性 | 1日3合分 | 1日約2.2銭 |
| 病気で働けない女性 | 1日2合分 | 1日約1.5銭 |
金額の換算値は参考試算であって、実際の支給額ではないのでご注意ください。
実際の支給事例
国立公文書館所蔵の『太政類典』に、次の記録が残っています。
- 対象者:備後国(現在の広島県東部)に住む86歳の女性「早戸スヘ」
- 事情:独り身で目が不自由。親族もなく、火災や風災にも遭って生活に困窮
- 決定:一時救助金として3円を支給
- 決定日:1875年1月17日
原史料:国立公文書館所蔵「小田県下道三町早戸茂平次寡婦救助米給与」
ただし、この3円は一時的な救助金です。恤救規則の標準的な年額を、そのまま支給した事例とは区別する必要があります。
恤救規則と救護法との違い
救護法は恤救規則に代わる政府の救済制度で、現在の生活保護制度につながる重要な法律です。成立順は次のようになります。
- 1874年(明治7年)…恤救規則制定
- 1929年(昭和4年)…救護法制定
- 1932年(昭和7年)…救護法施行
救護法の最大の特徴は、それまで限定的・恩恵的だった貧困者の救済を、行政が責任を持って実施する制度へと発展させたことにあります。
| 比較項目 | 恤救規則(1874年) | 救護法(1929年) |
|---|---|---|
| 救済対象 | 70歳以上の老衰者、13歳以下の幼児、病人・障害者など | 65歳以上の老衰者、13歳以下の幼児、病人・障害者、妊産婦など |
| 救済条件 | 原則として独身で働けず、家族・地域からも援助を受けられないこと | 貧困により生活できず、扶養義務者からも扶養を受けられないこと(緊急時は例外) |
| 救済内容 | 米の量を基準とした金銭給付 | 生活扶助・医療・助産・生業扶助の4つの扶助という形で金銭を給付 |
| 救済の実施責任 | 家族・地域による救済が原則 公的救済は府県が内務省への伺いなどを通じて実施 | 行政の救済義務を明確化 原則として市町村長が実施 |
| 財政負担 | 国費による救済が基本(町村費による救済も併存) | 原則として市町村が負担 道府県による負担・補助、国庫補助も規定 |
救済対象の広がり
救護法では、救済対象が恤救規則よりも広がりました。
例えば、高齢者の年齢基準は原則70歳以上から65歳以上に引き下げられ、妊産婦も新たに対象となりました。
また、恤救規則では独身であることや家族構成に厳しい条件がありましたが、救護法ではこうした制限が緩和されました。
救済の程度の増加
恤救規則は、米の一定量を金銭に換算して支給する仕組みでしたが救護法は、次の4種類の救護を規定しました。
- 生活扶助:日常生活に必要な援助
- 医療:病気やけがの治療に必要な援助
- 助産:出産に必要な援助
- 生業扶助:生計を立てるために必要な援助
さらに、自宅での救護を原則としつつ、養老院・孤児院・病院などの施設を利用する仕組みも設けられました。
現在の生活保護制度にもつながる、多様な救済方法が整備されたのです。
恤救規則が制定された理由・経緯
恤救規則が制定されたのは、行政上の理由からです。具体的には滋賀県からの要望で出来上がった経緯があります。
- 1873年6月滋賀県が、旧彦根藩の慣行に基づく窮民137人の救済継続を大蔵省に申請
- 同年7月大蔵省は申請を却下
ただし、困窮状況を詳しく調査して再申請するよう指示
- 1874年1月滋賀県令・松田道之が、調査結果を踏まえて124人の救済を内務省に再申請
- 同年6月内務省が、従来の救済事例を踏まえた統一的な給付基準を太政官に上申
- 同年12月8日太政官が「恤救規則」を制定
全国共通の救済基準が成立
出典:日本社会事業大学・北場勉「国民国家の形成と救済」、滋賀県立公文書館
恤救規則は「日本初の公的な扶助制度」ではありますが、貧者救済の制度がそれまでの日本に全くなかったわけではありませんでした。各藩レベルではそれぞれ救済制度が用意されていたわけです。
ところが明治政府が中央集権化(権力を中央政府に集中する政策)を進めるなかで、地方が独自の判断で継続的な救済を行う権限は制限されました。
そのため、明治政府は、全国共通の救済の判断基準を示すことで地方官が一定の範囲で救済を実施できるようにしました。
また、これにより救済にかかわる財政支出も一元的に管理できるようになったのも共通の救済制度を作った理由の一つです。
このような行政上の理由が恤救規則の制定の背景にあります、
国民からの強い要望や人権意識の高まりといった背景ではなかったことは、大きな特徴ですね。

